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2011年6月11日 (土)

忍城の水攻め

   忍城址(埼玉県行田市)には何回も行っている。
城址に立っても浮き城といわれた往年を偲べるものは何もない。
それでもさきたま古墳群にある丸墓山に登るたびに、421年前、石田光成や大谷吉継がこの上で眼下に忍城を眺めていたと思うと、なんだか当時の気分に浸れる気がする。

この5月に関が原を訪ねて歴史民俗資料館で西軍の石田、大谷両将の末路も聞いた。
この関が原の戦いの10年前の天正18年(1590)に忍城は豊臣秀吉の命で光成を総大将とする連合軍に攻められたのだ。

「のぼうの城」(和田 竜著、小学館版、“お気に入りの本”参照)は、忍城に籠城する成田氏長軍(この時、城主の成田氏長は小田原城にいた)と石田連合軍との攻防を描いた小説だ。

小説だからフィクションなことはわかっている。
確認はしてないが、登場する最後の城代だった成田長親や3人の重臣も実名だろう。

フィクションであっても、歴史の流れを見るには格好の書物だった。
また、武士のほか農民、町人も含めて3000余人で2万人の寄せ手を初戦で敗退させるには能力のある指揮者がいたはずだし団結力も旺盛だったはずだ。

翌天正19年(1591)成田氏長は豊臣秀吉から37000石を与えられ下野に烏山藩を開いた。
その後、関が原合戦を経て徳川政権下になると継嗣問題、家督争いで元和9年(1623)までに改易させられてしまう。

時代が変ると、もう水攻め当時の統率力や洞察力をもった指導者がいなくなっていたのだ。
まったくの初心を忘れてしまい、結局、藩を消滅させてしまった。

現代の国家運営や会社経営に通じる何かがあるようにも思う。

写真:熊谷市妻沼のあじさい寺(能護寺)のマリーゴールド(10日撮影)

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